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高崎~新前橋間 路線の移り変わり

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テキストと上に表示されている絵を使って路線の移り変わりを紹介していくページです。
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では、早速(次へ)
<明治17年8月20日~>の路線図が出てきたと思います。
・高崎~前橋間開通
日本初の鉄道が新橋~横浜に開通してから12年、私鉄の日本鉄道が高崎~前橋間を開通させ、上野~前橋間の直通運転が始まった(高崎までは同年5月1日に開通済み)。新しく開業した「前橋駅」は現在の「前橋駅」とは場所が異なり、利根川に橋を架ける工事を省く為に利根川手前の内藤分付近(現在の石倉町一帯)に建てられた。そのため、「前橋駅」は「内藤分停車場」とも呼ばれていたが、時刻表の表記は「前橋」だった。(開通当時の時刻表

<明治22年11月20日~>(この項は絵がありません。上の絵はそのままで)
・両毛鉄道の前橋駅開業
小山を起点に足利・桐生と順次開通させてきた両毛鉄道が、前橋までの工事を完了させ小山~前橋間で運転を開始。その際、利根川を渡る橋梁が未完成だったので、利根川をはさんで日本鉄道の「前橋駅」と両毛鉄道の「前橋駅」という「2つの前橋駅」が存在する事になった。

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<明治22年12月26日~>
・前橋駅がひとつに
工事が遅れていた利根川橋梁が完成し、日本鉄道の前橋駅を廃止して両毛鉄道の前橋駅に統合。
「2つの前橋駅」時代は約1ヶ月で幕を閉じ、日本鉄道と両毛鉄道の連絡運輸が開始される。

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<明治30年1月1日~>
・両毛鉄道が吸収合併される
両毛鉄道が日本鉄道に吸収合併され、前橋~小山間は日本鉄道の支線となる。

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<明治42年10月12日~>
・高崎~小山間、両毛線と命名される
明治39年3月31日に公布された「鉄道国有法」に基づき、日本鉄道は国に買収され国有化される。
その後、明治42年10月12日の「国有鉄道線路名称制定」により、高崎~小山間は「両毛線」という名称になった。

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<明治45年4月6日>
・高崎~前橋間に日高信号所開設
この時代、両毛線沿線では桐生(きりゅう)を筆頭に生糸の生産が盛んであり、日本のシルクロードと呼ばれるほどだった。その生糸や織物製品などを輸出港である横浜港に運ぶ為に、多くの貨物列車が運行されていた。これに加え、栃木県の足尾銅山で産出される銅の輸送を第一の使命として建設が進められている足尾線(桐生で接続)が全通した暁には、その銅を運ぶ貨物列車も両毛線を通る事になる。こうなると、約10Kmもある高崎~前橋間が一閉塞運行では輸送上のネックになってしまうので、信号所を設けて輸送力増強を目指したのではないかと思わる(推測)。
*信号所と信号場の違いについて

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<大正10年7月1日~>
・上越南線開業/新前橋~渋川間開通
大正8年11月に起工した上越南線第2工区(新前橋~渋川間)が5月に竣工し、7月1日に新前橋・群馬総社・八木原・渋川の駅開業と併せて「新前橋~渋川間」が開通した。また、上越南線新前橋~渋川間開業と同じ日に日高信号所は廃止。これは、新前橋駅で列車同士の行違いが可能である事や、新前橋駅と信号所の距離が2Kmと短い事が理由ではないかと思われる。
※上越線の歴史を記述する書物の中には、この時点での開通区間を「高崎~渋川」としているものもある。今回の開通区間について

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<大正11年3月15日~>
・上越南線・高崎~新前橋間新規開通
大正9年4月に起工した上越南線第1工区が完成し、上越南線の「高崎~新前橋間」が開通する。
この第1工区は、営業中の両毛線に並設される形で建設され、上越南線の列車は新設された線路での運転に切り替えられた。これにより、高崎~新前橋間は上越南線列車専用の「単線」と、両毛線列車専用の「単線」が並行する変則的な線形となる。ここで問題になるのが高崎~新前橋間の路線の籍だが、今回、上越南線の第1工区が開通して線路別複線という形になったにも関わらず、上越南線の籍は置かれず両毛線のみの籍となった。上越南線の第1工区として建設されたのに、最後まで「上越南線」になれなかった区間。上越南線の第1工区「高崎~新前橋間」は不思議な区間である。(現上越線の下り線)

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<昭和6年9月1日~>
・上越線全通
上越県境の清水トンネルが開通して上越南線と上越北線がレールで結ばれ、路線名を「上越線」に改称。晴れて上越線の全通開業となる。この時、上越線の起点が高崎と定められ、長年「両毛線」に籍を置いていた上越南線第1工区「高崎~新前橋間」は、ようやく本来の姿である「上越線」となる。なお、この区間は両毛線としての籍も引き続き残しており、「上越線」と「両毛線」の二重戸籍時代がしばらく続く事になる。

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<昭和12年4月15日~>
・浜尻駅/日高駅開業
高崎から3.2Kmの地点に「浜尻駅」、5.1Kmの地点に「日高」駅が開業。上越線の停車場変遷にはこの2駅が掲載されていないので、両毛線側の線路のみにホームが設けられた可能性が高い。しかも高崎発着の気動車普通列車のみの停車で、上野方面直通の電車・客車の普通列車は通過という変則的な駅だった。(この頃は蒸機牽引の客車列車が主流だったので、気動車列車は両毛線運行総本数の1/3程度に過ぎない。車両は、当時主流だったガソリンカー・キハ41000形を使用していた)。この時代のこの地域に、どうしてこのような駅間の短い駅が2つも誕生したのか疑問が残るが、その辺りの経緯を記す資料は見当たらなかった。ちなみに、ホームが無かったと思われる上越線側は全列車通過だった。

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<昭和15年11月1日~>
・浜尻駅/日高駅廃止
浜尻・日高両駅は、わずか3年半の短命に終わる。この当時は、昭和12年に勃発した日中戦争の戦局が切迫しつつある頃で、盛んにガソリン節約が叫ばれ、その対象となった国鉄のガソリンカーも運行回数を減らすなどの措置を余儀なくされた。おそらく、両毛線の気動車もその対象になり、気動車のみの停車であった浜尻・日高両駅はあえなく廃止されたのであろう。これに関しても推測の域を出ないが、軍需輸送を中心に据えた戦時ダイヤへと移行しつつある背景も考えると、この2駅廃止には、戦争が何らかの影響を及ぼした確率は高いと思われる。
それにしても、あまりにも短命すぎる駅だった。

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<昭和19年10月11日~>
井野信号場開設
上越線が使用している単線側のみに井野信号場が開設され、同時に時刻改正も実施された。同じ頃、上越線内に数ヶ所の信号場が開設されているが、これらの信号場が開設された経緯にはどうしても戦争の話を避けて通れない。
 この当時、昭和16年12月に開戦した太平洋戦争によって国内は戦時色一色になっており、国内の鉄道は「臨戦ダイヤ」から「決戦ダイヤ」、さらには「戦時陸運非常体制」へと移行していた。これらの詳しい内容についてはここでは割愛するが、連合軍の攻撃の激化や大陸方面への海上輸送の急激な増加で輸送船が不足し、北海道産の石炭の沿岸海上輸送が困難となっていた。そこで、石炭輸送のメインルートを陸上に切り替える事となり、その際、なるべく太平洋沿岸沿いを避けるルートが検討された。その結果、上越線がそのメインルートの一翼を担う事となり、輸送力増強が図られる事になった。このような経緯で、全線単線だった上越線に信号場を数ヶ所設置する必然性が生じ、その一つとして「井野信号場」が誕生した。

*この時期に上越線に開設された信号場については、次のページを参照*
戦時中に開設された上越線の信号場と営業休止線の関係

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<昭和22年4月1日~>
・高崎~水上間電化
上越線・高崎~水上間の電化が完了し、開業時から電化していた水上~石打間とあわせると、高崎~石打間で電気運転が可能となる。

 終戦後、極度の石炭不足から主要幹線の電化が計画されるが、GHQ(連合国軍総司令部)はこの計画に難色を示した。このような状況の中、国鉄はGHQの強い反対を押し切り、いち早く上越線の電化工事に着手した。その結果、終戦からわずか半年後の昭和21年2月1日、高崎にて電化起工式を挙行し、約1年の突貫工事の末に工事を完了させてこの日を迎えるに至った。戦後の混乱の中、全国の主要幹線に先駆けて上越線が電化された背景には、沿線の信濃川や利根川の水力を利用すれば電源確保が容易だった事や、蒸気運転に不向きな連続勾配区間が長い事、さらに、戦前から全線電化の計画があった点などが挙げられる。が、何より、太平洋側と日本海側との行き来を飛躍的に向上させた上越線を強化する事を、当時の国鉄が重要施策の一つに挙げていた事が大きな要因を占めていると思われる。

 半年後の10月1日には石打~宮内間(正確には信越線長岡まで)でも電気運転が正式に開始され、その日をもって「上越線全線電化」となった。

※高崎~新前橋間の両毛線区間については、「上越線電化と同時に電化された」「非電化のまま」と諸説あるが、明確に記述された資料が見当たらないので不明。当ページトでは「非電化のまま」という事にしておく。

<昭和23年12月25日>(この項は絵がありません)
・井野信号場で旅客取り扱い開始
この日から井野信号場で旅客乗降の取り扱いが開始される。ただし、当時の時刻表で確認する限りでは両毛線の列車の一部しか停車していない。従って、列車の乗降に利用されるホームは両毛線の線路側にのみ設置されたものと思われる。上越線に所属する井野信号場なのにホームは両毛線側のみという、何とも変則的な姿で旅客取り扱いを始めたことになる。※信号場開設当時から客扱いをしていたとの記録もあるが真偽は不明

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<昭和27年3月20日~>
・高崎線/大宮~高崎間電化完了
昭和27年当時の新前橋駅近辺の線路配線図によると、新前橋駅構内の水上方に上越線と両毛線を結ぶ電化された渡り線があった。その延長線上である両毛線専用の単線が、高崎~新前橋間のみ電化されているような図になっていた。この区間の両毛線部分がいつ頃電化されたかは不明だが、既に電気運転を開始していた上越線の一部の列車は、この「電化されている両毛線専用単線」を運行していた可能性も考えられる。なお、この新前橋駅近辺の線路配線図によると、両毛線小山方面の新前橋から先は非電化のままとなっていた。

(次へ)
<昭和32年12月20日~>
・二重戸籍時代終結
両毛線の終端が高崎から新前橋に改められ、高崎~新前橋間が上越線のみの所属となる。これにより、26年間続いた同区間の二重戸籍時代が終結した。それと同時に、これまで両毛線が使用していた単線をそっくりそのまま「上越線の上り線」とし、同区間が上越線初の複線区間となった。さらにこの日は、井野駅が「信号場」から「駅」に昇格された日でもある。ただし停車するのは両毛線の一部の列車のみで、上越線の列車は全て通過扱いだった。

※両毛線・新前橋~前橋間は、12月1日に電化完了済。


ここから先は「高崎~新前橋間」から逸れた話になりますので簡単な紹介だけに留めておきます。
(次へ)
<昭和36年3月29日~>
・上越線・新前橋~群馬総社間複線化完了

(次へ)
<昭和38年2月7日~>
・上越線・群馬総社~八木原間複線化完了

(次へ)
<昭和43年8月8日~>
・両毛線・前橋~駒形間複線化完了

(次へ)
<昭和43年8月16日~>
・両毛線・全線電化完了

<2004年(平成16年)10月16日 >(図なし)
・高崎~井野間に高崎問屋町駅開業

-おわり-

*余談になりますが、昭和19年の井野駅信号場開設の頃、「米軍の空襲から列車を隠す為に信号場の南側に向かって500メートルの引込み線を森の中に引いた」という記録がありました。確かに森らしき茂みが井野駅の南東側に確認できますが、現地調査や昭和50年前後の航空写真からは痕跡が確認できなかったので本稿から割愛しました。そのような歴史があったかも・・・という事実だけ申し添えておきます。

2003年作成

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