| 戦時中に開設された上越線の信号場と営業休止線の関係 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
戦時中に開設された上越線内の信号場は以下の7ヶ所。
このうち、「津久田・茂倉・越後大沢信号場」を除いた4ヶ所の信号場の開設年月日は、昭和19年の9月~10月に集中している。この年の10月11日に全国規模の時刻改正が実施されており、それに間に合わせるためにこのような開設ラッシュになったようである。 ここで、これらの信号場が開設されるに至った経緯を駆け足で紹介したいと思う。第二次世界大戦の戦局が悪化する一方だった昭和19年当時、軍部から鉄道総局に対する軍儒輸送の要求は高まるばかりで、総局もそれに応じる為に旅客列車の削減・貨物列車の増発という時刻改正(改悪)を繰り返していた。上越線関連では、上越線全通時に誕生した上野-新潟間を結ぶ看板列車である急行701・702列車が昭和18年2月の改正で廃止に追い込まれている。 このような旅客列車の削減が進む中、北海道や大陸で産出された石炭の輸送を、輸送船の不足や連合軍の砲撃回避を理由に海上輸送から鉄道による陸上輸送へとシフトする事が決定した。そして、その輸送ルートが検討された結果、連合軍からの砲撃被害を受けやすい太平洋沿岸を通る東北本線のルートよりも、砲撃被害が少ないと予想される日本海側と内陸を通って首都圏に抜ける裏日本ルートのほうが輸送確保に適しているとされ、そのルートの一翼を上越線が担う事になった。この結果、輸送ルートの切り替えで一気に増加する見込みとなった石炭列車の輸送力を確保する必要が生じたため、上越線内に4ヶ所の信号場が新設された。 しかし、このような決定が下される一方、国内で生産される鉄鋼品の多くが軍事目的に使用されていたために鉄道用のレールが不足するという事態に陥っていた。そのため、重要線区の信号場の設置工事で生じるレール不足を補う目的で、営業中だった既存の閑散路線のレールを撤去し、それを他の重要線区で再利用するという苦肉の策がとられた。実際にこの頃レールが撤去されてしまった例として、「五日市線」の拝島~立川間や「弥彦線」の東三条~越後長沢間、さらに「魚沼線」全線などが挙げられる。 このうち、「五日市線」の区間は現在青梅線となっているが、その昔、拝島~立川間は南武鉄道(五日市線の前身)と青梅電気鉄道(青梅線の前身)が並行する競合区間だった。しかし、昭和19年4月に両鉄道とも同時に国有化され、それぞれ「五日市線」「青梅線」に名称が変わった訳だが、国有化されて間もなく、同区間の五日市線のレールだけが次々と撤去され、この区間の五日市線は同年10月に営業休止になってしまった。また、さきほど述べた魚沼線全線と弥彦線の一部も、同じ頃に営業休止になっている。これらの線区が営業休止になった10月というのが、上越線に次々と新設された信号場の開設時期と一致するのはたまたまであろうか。 偶然の一致かもしれないが、五日市線や魚沼線・弥彦線などで撤去されたレールが、同じ頃に次々と新設された前述の上越線の信号場のレールとして使用された可能性が無きにしもあらず…といった所でしょうか。 |
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