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上越線に翻弄された魚沼線の歴史
1、魚沼鉄道開業
 昭和57年3月31日に廃止された魚沼線の前身である魚沼鉄道は、明治44年9月14日に来迎寺~小千谷間を軽便鉄道として開業したのが始まりである。この鉄道の開業は、当時の南・北魚沼郡地域の生活に多大な恩恵をもたらした。魚沼鉄道が開通する以前、群馬県側を急峻な谷川岳に阻まれていたこの地域の人々は、魚野川や信濃川の船便を利用して小千谷や長岡の船着場まで行き、そこから信越線(旧北越鉄道)の駅まで徒歩や馬車で訪れたのちに鉄道を利用して目的地へ向かうというのが常だった。しかし、魚沼鉄道が開通した事により、小千谷から信越線の来迎寺駅まで簡単に行けるようになったため、多くの旅客がこの鉄道を利用するようになった。加えて、信濃川の砂利運搬や電源開発用の資材運搬の貨物輸送も好調だったため、魚沼鉄道は全国屈指の黒字鉄道会社として安定した利益を上げ続け、国からの補助金が打ち切られるほどの好成績をおさめた時期もあった。しかし、このような順風満帆な経営を続けていた魚沼鉄道にとって、その将来を左右しかねない大きな鉄道の敷設案が大正7年3月に政府で可決された。首都東京と大陸に面した日本海側を最短距離で結ぶ鉄道として、当時の陸軍から再三再四強い要望が出されていた上越線である。
2、廃止の危機
 上越線が開業すれば自社路線が大打撃を受ける事が目に見えていた魚沼鉄道だが、上越線の敷設が決定するかなり以前から、自社路線を小出または十日町方面に延長する計画を練っていた。しかし、資金面での折り合いがどうしてもつかず、計画を棚上げしていた時に上越線の敷設が決定してしまったようである。一方、官設としての建設が決定した上越北線(上越線全通以前の新潟県側は北線、群馬県側は南線と呼ばれていた)は、敷設案可決から着工・開業に至るまでの時間はあっという間で、建設決定からわずか2年後の大正9年11月1日、北線最初の開業区間として東小千谷~宮内間の営業運転が開始された。すると当初の予想通り、魚沼鉄道の旅客・貨物の輸送量が減少し、業績が急速に悪化して赤字経営へと陥ってしまう。しかし、官設の上越線が原因で経営不振に陥った私鉄の魚沼鉄道側は、この事態を黙って見過ごしてはいなかった。魚沼鉄道はこのような結果になる事を北線が開業するずっと以前から予測し、ある1つのシナリオを作り上げていた。そのシナリオとは次の通り。
  • 上越北線開業後に経営が悪化すれば、魚沼鉄道は廃止する。
  • その際、地方鉄道法に定められている「官設の新しい鉄道がその地域に以前からあった私鉄の経営を圧迫して廃止に追い込んだ場合は、その損失を補償する」(←要約)という条項の適用を申請し、政府からの補償金を受け取る。

 一方、魚沼鉄道の経営を悪化させる原因となる上越線の敷設を決定した政府も、魚沼鉄道に関しては「補償のうえ、営業廃止を受理する」という方向で調整を進めていた。ところが、上越北線が開業するずっと以前にこれらの情報が魚沼鉄道沿線の住民に漏れてしまい、「生活の足を奪われては困る」と訴える沿線住民から猛反対を喰らう。そして、これらの住民運動は地方の政治を巻き込むどころか中央政界にまで飛び火し、魚沼鉄道にとって思ってもみなかった結果をもたらした。

 上越北線が開業した翌年の大正10年の暮れ、「営業廃止やむ無し」の結論が出た魚沼鉄道は、政府に対して営業廃止に対する補償を伴なう廃業届けを提出する。ところが、政府の答えは

  • 魚沼鉄道は国有鉄道の予定線である「来迎寺~岩沢」線の一部に該当しており、路線を残しておいたほうが得策である。(補足:予定線の「岩沢」とは、現在の飯山線の越後岩沢駅がある小千谷市岩沢地区の事)
  • 沿線産業への影響、並びに軍事的見地からも、魚沼鉄道の廃止は妥当ではない。

というもので、当初の政府の考えから180度方向転換したものだった。しかも、この案件を審議する過程で「軽便規格の魚沼鉄道の軌間を狭軌に改めたうえ、小千谷で上越線と接続させる」という内容も約束された。政府のこれらの方向転換の背景の1つには前述の住民運動の成果があった訳だが、より現実的な言い方をすると様々な政治駆け引きや金品の授受などがあった模様である。 

 3、買収・国有化
国鉄・魚沼線になった頃の時刻表
大正11年6月15日改正
下り 上り
来迎寺 6:30 9:12 14:39 17:34 小千谷 7:36 10:10 15:34 18:29
片貝 6:44 9:25 14:52 17:47 平沢 7:43 10:17 15:41 18:36
高梨 6:56 9:37 15:04 17:59 小栗田 7:50 10:24 15:48 18:43
小栗田 7:04 9:45 15:12 18:07 高梨 7:58 10:32 15:56 18:51
平沢 7:11 9:52 15:19 18:14 片貝 8:12 10:45 16:09 19:04
小千谷 7:16 9:57 15:24 18:19 来迎寺 8:23 10:56 16:20 19:15
 経緯はどうであれ、「補償金の受領ののち廃止」を申請した魚沼鉄道は、「買収・国有化」という道を歩む事となった。期せずして自社の路線が残る事になった訳だが、廃業補償金と買収金のどちらが高かったにせよ、北線開業による自社の営業損失に対して政府からの補償は受け取る事が出来た。そして、大正11年6月14日、明治末期に創業した魚沼鉄道の歴史にピリオドが打たれ、翌15日から国有鉄道の「魚沼軽便線」として第2のスタートを切った。なお、魚沼軽便線がスタートして間もなく、国有鉄道の路線名で「軽便」という名称を使用しなくなった為、すぐに「魚沼線」という路線名に変更されている。(線路規格は軽便のまま)
 それから、前述の「改軌後に上越線と接続させる」という計画は、国有化反対を唱える野党の攻撃をかわす為に与党が苦し紛れに言い放ったもので、国有化後も実行に移される気配など全くなかった。この「改軌」が早い段階で実現し、さらにその後電化をして上越線と接続させていれば、宮内駅を経由せずに上越線と信越本線を短絡させる路線として生き残っていたかもしれない。しかし現実はそうではなく、魚沼線の終点小千谷駅と上越線の東小千谷駅(当時の呼び名)の間にある大河・信濃川が、この計画を水に流してしまった。
4、「小千谷」の看板を明渡す
 上越北線が南へ延伸するに連れ、小千谷の玄関口が魚沼線の小千谷駅から上越線の東小千谷駅へと変わっていった。そこで、当時東小千谷駅があった稗生(ひう)村が小千谷町と合併したうえ、小千谷の玄関口になりつつある上越線の駅名を「小千谷」に改称しようという提案が出される。そして上越線が全通した翌年の昭和7年7月15日、まず魚沼線の小千谷駅が「西小千谷」に改称され、この半月後の8月1日、上越線の東小千谷駅が「小千谷」駅に改称された。これで、名実共に小千谷の玄関口は上越線の小千谷駅となり、魚沼線の小千谷駅の時代は20数年で幕を閉じた。上越線の開業で廃止の危機を経験した魚沼線は、町の看板である「小千谷」という駅名までも上越線に奪われてしまった格好になる。魚沼線にしてみれば、「またしても上越線か…」といった感じだろうか。

…しかし

魚沼線の悲劇はこれだけに留まらなかった。
5、戦争により、一時休止
 戦局が悪化する一方だった昭和19年10月、またしても魚沼線に試練が舞い込む。当時、既に全国の鉄道は軍事中心のダイヤへと移行し、一般旅客に対しては旅行の自粛を呼びかけ、旅客列車は軍需工場への通勤輸送や戦地へ赴く兵員の輸送、貨物輸送に関しては軍需物資優先という措置が採られていた。これらの措置を採るにあたり、その都度大きなダイヤ改正を伴なっていたのだが、その度に次のような文言が付け加えられていた。(全て昭和)
  • 17年11月15日改正…戦時陸運非常体制実施
  • 18年2月15日改正…臨戦ダイヤ
  • 18年10月1日…決戦ダイヤ
  • 19年4月1日…決戦非常措置要綱実施
  • 19年10月11日…戦時陸運非常体制実施   など

 それぞれの改正についての詳しい内容は割愛するが、一言で言うと鉄道本来の姿から逆行する改正だったという事だろうか。そしてこのような状況の中、全国各地の幹線の輸送力をさらに強化する必要が生じたため、列車回数を容易に増やす事が出来る信号場の設置が次々と決定する。当時、北海道炭や日本海側で陸揚げされる大陸産の石炭を多くの軍需工場を抱える首都圏に輸送する重要なルートとなっていた上越線にも、計4つの信号場が新設される事になった(開設された信号場については別ページの戦時中に開設された上越線の信号場と営業休止線の関係を参照)。にも関わらず国内の鉄鋼品は不足している状態で、国鉄は新しいレールを調達出来ないという事態に陥っていた。そこで、全国の閑散線区のレールを撤去して幹線の線増区間へ転用し、線路が撤去された路線は一時休止、あるいはそのまま廃止するという方策が採られる。
 
 魚沼線はこの閑散線区に該当してしまい、昭和19年、魚沼線の線路は次々と剥ぎ取られて10月16日から営業休止となる。剥ぎ取られた線路の正確な行先は定かではないが、魚沼線の休止と時を同じくして上越線に相次いで信号場が誕生しており、これらの信号場へ魚沼線のレールが転用された可能性は否定できない。仮にそうであれば、「またしてもまたしても上越線か…」という事になる。

6、終戦後、復活
 戦争によって一時休止となった魚沼線だが、終戦後も放置されたままの状態がしばらくの間続く。しかし、戦後復興が軌道に乗り始め、国内の鉄道が戦前の水準へ徐々に戻りつつある昭和20年代後半になると、沿線住民から魚沼線復活を願う要求が出され、かつての魚沼鉄道廃止の危機を救った時と同じような熱烈な運動が繰り広げられた。この運動が実を結び、昭和29年8月1日に晴れて魚沼線の復活となる。この際、休止前に軽便規格だった軌間は国鉄標準の狭軌に改められ、休止前まで営業していた平沢駅は廃止、終点の西小千谷駅は旧来の場所よりも1キロ西方に移動している。
7、魚沼線廃止へ
 晴れて復活を果たした魚沼線だが、輸送量そのものは戦前と比べて大きな変化もなく、1日数往復という運行形態が続く事になる。昭和31年11月には無煙化を果たして気動車での運行に切りかわったが、自家用車の普及率が上がるにつれて魚沼線の乗客離れが加速し、利用者は減り続ける一方だった。これは魚沼線に限った話では無く、全国各地のローカル線が同じような状況におかれ、同時に、国鉄そのものの経営状況を示す数値も毎年異常な数値を示していた。

 このような状況の中、昭和55年12月に「国鉄再建法」が公布され、その中で「特定地方交通線」という路線が全国の赤字ローカル線から選定された。この特定地方交通線は、さらに第1次~第3次特定地方交通線に分類され、魚沼線は最も廃止時期が早いグループである第1次特定地方交通線に指定される。この「第1次特定地方交通線」の選定基準は、「輸送密度2000人未満で営業キロ30キロ以下の線。但し、両端が他の国鉄線と接続している線と石炭を相当量輸送している線を除く」というもので、全国各地の赤字ローカル線のうち、40の路線がこれに指定された。この決定を受けた魚沼線沿線の自治体は協議を重ね、新潟の有力バス会社である越後交通がバス転換して沿線住民の足を確保するという決定が下された。この際、転換バスが運行される道路の除雪強化のための財源を国が補助するという条件もついている。

 昭和58年秋、第1次特定地方交通線に指定された赤字ローカル線のトップをきり、北海道の白糠線が廃止になる。そして翌年の昭和59年3月31日、魚沼線も最後の日を迎える。前身の魚沼鉄道の廃止危機・小千谷駅の改称・戦時中の一時休止など、さまざま困難を乗り越えてきた魚沼線だったが、モータリゼーションという時代の波には打ち勝つ事が出来ず、遂にその歴史にピリオドが打たれた。
略史
  • 明治43年~44年…軽便鉄道として事業免許が認可される。(軽便鉄道としての認可は魚沼鉄道が国内初)
  • 明治44年9月14日…魚沼鉄道・来迎寺~小千谷(当時)間全通開業
  • 大正9年11月1日…上越北線・東小千谷~宮内間開業
  • 大正11年6月15日…国に買収され国有化。魚沼線と改称
  • 昭和7年7月15日…魚沼線の小千谷駅を、「西小千谷」駅に改称
  • 昭和19年10月16日…重要幹線に線路を供出するため営業を一時休止
  • 昭和29年8月1日…改軌(1067mm)して復活。同時に、平沢駅廃止・西小千谷駅移転
  • 昭和31年11月頃…気動車化
  • 昭和59年3月31日…廃止

参考資料:国鉄百年史、小千谷市史

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